2013年10月9日水曜日

映画シャイニング  後、肩甲骨

ずっと見てみたいと思ってた映画『シャイニング』 fc2で見れるのを発見しました。探していたわけではなかったんですが、そういえばシャイニングまだ見ていないなという虫のしらせから、検索をかけてみたら、見ることができました。

導入部分から非常によい映画でした。
ここできめなきゃダメだよってところで、確実に決めてくる。だからこの次のシーンも見たいってなりました。映画の構成が完璧ですね。
構成は作れても、その部分部分がうまくいくかという問題はありますが。ばっちりと決まっていてよかったです。

シャイニングは3人家族が、リゾートホテルで留守番をするホラー映画です。



家族にとっては退屈なホテルまでの道のりでも、視聴者に退屈させてはなりません。そこで、綺麗な山脈を進む、車中の家族の会話を挟みます。
視聴者にとって、もっとも印象的なシーン、しかし導入部なので、決定的なものであってもいけません。そこでは、これから起こることをただ予感させるだけにとどめる必要がありました。

お腹がすいたという息子に、ママはホテルについてからとなだめます。
そしてパパは、この近くの山で遭難があった話をするのです。生きるために、人肉を食べたと。息子は「仲間の肉を食べたの?」と聞き返します。
ママはそんな話はやめてとパパを制止しますが。息子は「いいんだよ、カニバリズム(食人)のことは、もう知っているから」とママに。
パパは言います。「そう、平気さ。テレビでやっているんだから。」

この導入部を見て、思い出すのは、川端康成でした。
山・乗り物というテーマが、それぞれ伊豆の踊り子、雪国を彷彿とさせます。

『国境の長いトンネルを抜けると・・』は、自分の知らない、新しい世界への入り口を、端的に表現したフレーズであるし、

伊豆の踊り子の導入部は、主人公が、雨に追われながら、入った店先で、旅団に合う。その一人の芸者に一目ぼれをするところから始まる。
『道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追って来た。』
綺麗な少女と出会いには、雨が呼び込んだような、運命を感じさせるシーンです。
つまり、これから、いかにも何かが起こりそうだと予感させるのです。

シャイニングの導入も乗り物であり、山ですが。
山は馴染みがそれほどなく、いつもの日常と比べれば、すこし変わった気持ちになれる場所ですが、これからその奥へ奥へと、自動的に車に連れて行かれるのです。
乗り物にのると、ワクワクと胸の高鳴りを誘発させます。同時に、自動車の安全神話も加わって、未知の世界を訪れるには、もってこいの乗り物になります。
パパの運転する自動車は、乗り物全体が、パパにとってかわって、僕を守ってくれるような安心感がありました。助手席に座るだけで濡れてしまうような女もファザーコンプレックスを感じるからでしょう。

これは有名な歌の導入部ですが、やはり素晴らしいです。
ベタ過ぎてタイトルを出すのは恥ずかしいですが
<<翼の折れたエンジェル/中村あゆみ>>
『ドライバーズシートまで横殴りの雨』 という導入です。
激しい雨に打たれながら、車に乗り込んで、一息ついたあとの。「これからどうしよう?」という空気は、誰もが経験したでしょうが、たまらなく心が高揚する時間です。(この経験がない・あるいは分からない奴は、生きてる価値ないけど)

山の中であれ、どしゃぶりの中であれ、そこに一人取り残されることは、恐怖に他なりませんが。車の中に人といるのだと考えると落ち着いた気持ちになれるものです。

しかし、シャイニングの車内で交わされる親子の会話は、その安全神話に準ずるものではなく、傍から見ていると奇妙です。
ワクワクと高揚した気持ちは、映像から見て取れますが、セリフそのものからは、まるで感じられません。
パパは非常に冷め切った話をしていますが、本質を捉えています。しかし、面白いジョークを言ったような語感があるのです。
車内で生まれた空気は、山道を進むことに対する胸騒ぎでも、山と車内とが生む安心感でもありません。
パパはジョークで皮肉をいいドヤ顔をし、子供は、その言葉を、皮肉としても、ジョークとしても、素直に受け止めた顔をし、ママは、苦笑いをしています。

映画として最高の導入部を作ったシャイニングですが。この導入部の瞬間をきりとってみても、素晴らしさが分かります。
この構図は、これ以上ないぐらい完璧です。これは、映画に登場した俳優陣がいかに素晴らしかったのかも同時に物語っています。
普通映画では、一度にこんなにも完璧な表情がそろうことはありません。
パパ(ジャック・ニコルソン)は、得意のドヤ顔。
子供(ダニー・ロイド)は形容しがたい、ただ素直な子供の表情でママをみつめます。いえてるいえてる・・という顔にも見えますし、ママの自分を心配する癖を発見し、指摘するような表情にも見えます。しかし、本当によーく見てみると、悲しそうな顔にも見えるのです。それはどうしてなんでしょう?
ママ(シェリー・デュヴァル)は苦笑いを浮かべ、パパも子供も、その両方の心中を伺っています。ママは、この瞬間に対しての解答を出せずにいます。それは、子供のことを思うに他なりませんが、パパの性格も分かっているからでしょう。

さて、この子供の顔は、どうして、なんとも形容しがたい子供らしい顔つきだと思えるんでしょうか。私が不思議に思うのは、パパを見た後に、子供の顔を見ると、とても幸せそうな顔にみえるのですが、ママを見た後に、子供の顔をみると、すこし悲しそうな表情に見えてくるのです。
つまり、この子供の顔と言うのは、パパの顔にも、ママの顔にも対応した、真に子供らしい表情といえるのです。
子供が、子供を演じるときに、真の子供の表情を出せるものなのでしょうか・・・。

導入部の車内の会話だけで、3人の性格はよくわかります。そして、3人がどのように、家族を思いあっているかということも分かります。
このシーンを撮った時には、想定していた以上に、色々な偶然が重なって奇跡が起こったのでしょうが・・・。
ああ・・やっぱりすごい映画なんだ、僕にどうしても見たいと思わせていた気持ち、また、映画のほうからも、いつ見てくれるの? と催促されていたような、引かれ合い。その運命が確かなものだったと感じさせた瞬間でした。
まだ、始まって10分ばかりがすぎたところなのに。

3人の性格というものは、どのようなものでしょうか。
子供は、ママもパパも良く見ていて中立的だともいえます。
ママも、パパのセリフに対し、子供にどのように接するべきかと考えを働かせます。
パパはどうでしょう? このパパの言動を視聴者が計り知ることはできません。その証拠にママを困らせてしまっています。
3人の性格が分かったというのは、ママの性格、子供の性格、それとは別に、パパの性格が分からないということを浮き彫りにしたシーンなのです。
このシーンを経て、視聴者は、どのようにパパを受け止めるべきでしょうか。
パパの言葉も、得意そうな顔も、今しがた、子供がごくごく素直に受け止めたように、パパを見てもよいものでしょうか。
それとも、ママのように、苦笑いを浮かべるべきシーンなのでしょうか。
映画には、15歳以上になってから見るのが適切だと銘打たれてはいますが……。

シャイニングは有名な映画ですから、映画を見たことがない人でも、ストーリーは知っていると思います。僕も大枠でしか知りませんでしたから。(まぁ、まさかこのようなディティールを知っていれば見ようとは思わないので)この導入部の素晴らしさを語るには欠かせない、ネタバレをしてもいいとは思うのですけど。
つまり、この導入部の何が素晴らしいのかというと

ロケーションがよいこと。(背景綺麗である)
好奇心をそそる展開であること。(車で山道を登る)
退屈でないこと(実際は退屈だろうから)
セリフを決めていること(テレビでやってる)
登場人物の性格が、一瞬で浮き彫りになったこと
構図も、演技も完璧に合ったこと
そしてなによりも、この素晴らしい導入部分が、伏線になっていること

かなりの深読みに入れば、この3人の中に仲間はずれはやっぱりいます。
それはいうまでもなくパパですが。パパが異常者なのかといえば、そうではありません。ただ、他の二人とは違っていることがあります。
パパがグロテスクなことを言ったことや、ママを困らせていることは、考慮するに値しません。短い時間の中で、人を困らせたり、卑猥なことを言ったりして、異常だと判断することは誤りです。長い目でみたときに、ママにも子供のほうにも現れることかも知れません。しかし、長期的にみても変わらないであろう、3人の中にある性格の根底は表れたはずです。
再三説明することになりますが、ママも子供も、家族の気持ちとリンクしているということ。しかしパパの気持ちは分かりません。家族とリンクしていないとも、いいきれませんけども。

パパは、そのような、理解不能である、絶妙な皮肉をいうのです。皮肉を冗談めかして言う人が誰にも、身近にいないわけではありませんし、皮肉の意味が分からないわけでもありません。パパの皮肉は確信をついており、しかしママの動揺をさそっています。ママの動揺は、思いがけない多くの真実を、一気に受け止めなくてはならなくなったことです。ママが子供に知って欲しくなかったことがらを、子供がすでにしっているということ、子供が自主的に、知ることができるということ、それから、パパが皮肉としていったこと。
パパの皮肉が絶妙なのは、子供に対しては、自尊心を煽るように「お前はもう知ってるもんな~? 知らないのはママだけ。」という顔に見える一方で、ママにはショックを与えること。ママはパパの皮肉により、子供が自信をつけてしまうことも考えてみても、当然ショックをうけるはずです。子供には、パパの言っている言葉の裏側が分からないからです。
パパのジョークは本当に絶妙で、敏感になって感じ取れるものです。実際にも、絶妙な皮肉をいって、場をいっきにまとめたり、混乱させたりする人はいます。ジョークが話の流れにそったもので、的を射ていればその意味は非常によくわかり、人の心を討つものですが、しかし、そのジョークを言った本人の心の中には決して到達することができません。
ここでは、ママと子供が、家族と心を通わせているが、パパだけは、家族と心が通っていないと説明しようとしましたが。
子供とママに対して、それぞれ別の顔を持ってだが、接することが出来ているということもできるでしょう。
だから、次のように言い換えます。
この瞬間のパパは非常に能動的になって、家族の心に訴えかけている。そして二人はどの家族の言動に対しても、受動的に感じていると。



伏線自体は、それっぽいものがたくさん張られていますけどね・・。シャイニングの前半部分をみていて、すこし残念だと思えたのはそのあたり・・。
まぁだけど、ホラー映画なので、意味のないミスリードで怖がらせたりしなきゃならないんでしょうけど・・・。ホラー映画がくだらないジャンルだっていう証明ですね。
怖いシーンがあっても、本当に、まるで意味のない無駄な怖いシーンですからね。それはアクションやスプラッタにもいえるんですけど。



・・・・・・・
すいませんでした。その後5分ぐらい見たんだけど、残念なミスリードなどではなかった・・・。というか残念なミスリードだなと思った分だけ、反動ですごくよいものに見える。この仕掛けはすごい・・・。
やっぱりパパの伏線も完璧だったといわざるをえませんね、この残念なミスリードっぽかった話の展開が消してしまうから。
うーん・・・。やっぱり完璧だ。開始21分まで完璧すぎる・・・。
ていうかシャイニングってそういう意味だったのか~~。全然知らなかった。


まだ全部はみれていないので、続きは明日見ます。
僕は映画みるの時間かかるほうですからね。なんでも普通の人ってシャイニングなら2時間かからずに見れるらしいです・・・。
プリキュアもまだ8話までしか見てないのに。テレビ放送のアニメはどんどん先にいっちゃう。

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シャイニングの面白さはそれぞれが暇を潰しているシーンにもありますね。

子供が、マリオカートのように、ホテルの廊下を走る場面。(これは確実にマリオカートに影響をあたえたと思う。)

パパが広いホテルの中をところ狭しとはしゃぐシーン
何もかもが完璧に見えます・・。どうしてこんな映画が撮れたのかと。

パパは物書きらしいんだけど。構想をねるために、誰もいないホテルの中で、壁にボールをぶつけて遊んだりする。
そして、建物のそとにもある迷路のミニチュアを眺めていると、構想がわいてくるのだが。そのシーンもまたすごい・・・。
ここだけは、文字で表現するわけにはいかない、実際に映画をみてすごさを体感して欲しいシーンですね。

うーん・・・。シャイニング有名だけど、もっともっと評価されるべきなんじゃないの・・・。



映画金閣寺は、ゴミみたいな出来だと思ったが、金閣寺の謎演出と、シャイニングの演出が被るところがある。
映画の金閣寺はまじめにみていなかったんだけど、その謎演出も、シャイニングのパロディとしてみれば、立派であり、原作同様に、爆笑をさそうところだったのではと考え直したが、シャイニングは1980年、映画の金閣寺が撮られたのは1976年だった・・・。
謎演出とは、原作では、主人公の頭を取り巻く金閣寺が、一瞬一瞬のタイミングを逸する原因になってしまうというもの。本当は、単純に臆病なだけなのだが、自分の頭の中にだけある、シャイニング金閣寺に責任をなすりつける、人の心をもてば、そういう気持ちはよくわかるし、あと一歩を踏み出せなかったあるあるですね。
文章で読むと、そのシーンには感銘をうけますが、いざ、映画になってしまうと、その場面で、半透明の金閣寺がカメラに向かって迫ってくる謎演出で、まぁ、表現したいことは分かるんだけど・・・どうかんがえても変でしょっていう気持ちにさせられるところですよね。
で、このシーンはじつはシャイニングのサブリミナルで双子が出てくるパロディだったのだと言い張れば、コレは逆に映画としてもよい演出になったと思う。原作の金閣寺の、金閣寺がタイミングを逸する原因となるシーン、あの名シーンをギャグとも取れるので、ギャグとして受け取り、パロディにすることで完全にギャグとして表現することが出来たのに。

まぁそのシーンがあっても。映画はダメだったけどね。
映画で印象にのこったのは、その謎演出のシーンだけだ。それも、あまりにもひどかったので思い出せたが・・・。今、小説の金閣寺を思い出しても、ほとんど最初から最後まで、要所要所を鮮明に思い出せるのに。その後からみたにもかかわらず、映画にはまるで印象が無い。主人公の顔すら思い出せないですね。



シャイニングは見れば見るほど完璧すぎて。
どのシーンも印象に残ったといいたいぐらいだ・・。
タイプライターを打つパパに近づくママのシーンから、音楽に合わせて紙を取り出すパパ。
キスのあと、見上げたママが、肖像画のような構図で写るところ・・・。

危険すぎる。こんな映画作っちゃダメでしょ。
むしろ、どうして、他に、シャイニングのような映画が作れないのか?


ま、しかし。シャイニングから学んだ教訓がひとつありました。

人の気持ちを考えない! なんてことを言う人はいるが、たぶん、その対象と言うのは、人の心を動かそうとする人へ向けられるんでしょう。
人の心を動かそうとするときに、自らが、受動的であるわけにはいかないのでは? と安易に反論できますね。
あれ!? ということは、もしかして、人の心をなだめようとする時は、心を動かそうとするのではなく、人の心に同調することが有効なのか!?
これは大発見だ~~




今日はウィンドスプリントに挑戦したよ。

台風のニュースやってたのを忘れて走りにいってしまった。
帰り際にパラパラ降り始めて、その時に思いだしたのだけど、雨が完全に降り出したのは、走り終わって、家についてからだったので、ギリギリでした。


ストレッチで質のよい筋肉を作り 筋トレで、量を増やす

たぶん、筋トレすらままならないうちは、ストレッチを重視して、とにかく筋肉の質をあげまくったほうが良い気がする。


6ヶ月のトレーニングでフルマラソン4時間切りを達成しようというトレーニングメニューだそうです。そうとう軽くないかなと疑わしい。

僕はもう一週間ぐらい走って、体を動かすことに、すこしなれましたが、メニューの中では最初はやたらストレッチが多い。
ストレッチ自体は最後まであるんですけど。休憩またはストレッチのような項目が、結構出てきます。
なので僕ぐらい体力がない人でも出来るメニューだと思いましたね。


ふくらはぎの筋肉痛がなおりません。
走ったり、歩いたり、スプリントを3本やったけど、違和感はありませんでしたが、ふくらはぎを意識して力を入れたり、伸ばしたりすると痛いのが分かります。



肩甲骨の可動域

重要性について思い知りました。たぶんだけど、肩甲骨の可動域・柔軟性? というのは、運動をする上でもっとも大切な要素になると思います。

肩甲骨がどれぐらい大事かといいますと、僧帽筋や広背筋という、体の中でも最大級の大きな筋肉に繋がっているということ。さらに、最も多くの筋肉を繋いでいる骨でもあるということです。

骨盤もそうとう大事なんですけど。 重要な骨のツートップってことですね。

考えてみれば、小指の第二関節の筋肉を鍛えて、上腕筋のような山をつくったところで、その重要度は少ないんですよね。
だから、単純に大きな筋肉から優先して鍛えることが大事なんでしょう。

肩、背中、太ももなどですね。それらは柔軟性も大事。

子供のころから肩甲骨の可動域は人より広かったと思っています。肩甲骨を背中から突き出して、羽だといって遊んでいましたからね。
肩こりとかの原因は肩甲骨の可動域が単純に狭いことが原因にあがるらしいです。
この辺りの事情は、運動をまったくしなかった僕にとっては幸いなことでした。

運動をするときに、よく胸を張って・・・・という指導があると思います。これは間違いで、ただしくは、肩甲骨を引っ付けて・・。
しかし、意味わからないので、胸を張ってというんですね。
これからは肩甲骨をそうとう意識して運動します。


また、それと関連してだけど。高橋尚子が指導をしている動画を発見したが、そこでも、大きな筋肉から鍛えろと言っていた・・・・。
やっぱりそうなんだなという核心みたいなのがもてますね。

高橋尚子ことQちゃんは僕は国民栄誉賞をもらったことが気に入らなくって嫌いになったがまぁ、マラソン選手としてはよかったんだろう。それから、たぶん指導者としてもかなりよい人材なのではないかと思いますね。


マラソンで3.5時間を目標にする場合のトレーニングメニューを見ると、今自分がやっている、朝のランニングぐらいでは全然足りないことが分かりますね・・。
目標を30分縮めるだけでも、こんなに違うものなのかと思う。。

体重は62.0kgでした


模写をしてたが、途中でお客さんが来てやめてしまった、すこしもったいない。
人体を描くときにも、大きな筋肉の流れを意識して描いてみよう~~

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