ヤバイ状態だ
何もやる気がしない。
今日も絵を描く気がおこらないなーってくすぶってたけど。
はじめは、絵だけなのかなって思ってたけど。何にもだ。
ご飯を食べる気もしない。
腹減ってるけど。
それで、腹へってるな~って理由から、何にもする気がしない。
オナニーもする気がしない。
でも、ボーっとしてるんだよね。
だけど、別に、ボーっとする気もしないから。
何しようかな → 別に何もする気がしないのループだ。
ということで映画は見た。
これも興味はあったけど、まだ見ていなかった映画『しんぼる』だ。
映画監督 松本人志について
頭頭、SASUKEは、松本人志の映画として、どれぐらい認知され、どの程度の評価を受けているかは、知るすべがないのだが、大日本人から踏み出した、松本人志、映画監督への道に見られる、映画の評判は軒並み悪い。
この『しんぼる』だけは見てなくて、検索をかけたわけじゃないんだけど、youtubeでたまたまそれらしいのがあったら、どうやら映画本編だったので、見てみました。
松本人志は映画監督としての評価が非常に低い監督だと思います。
いかにして、低評価を受けてしまうかという運命については、長くなるので割愛しますが、端的にいいますと、松本人志の神格化にある。これは、アンチもファンも、みんなが神格化している。
誰もが、過去の偉人としてみたいと思っているのに、今、同じ時代に生きていることに、暑苦しさを覚えるのだと。
好きな人も、嫌いな人も、完璧なものしかみたくないから、テレビでの視聴率も低い。
松本人志の面白かった部分だけを切り取ってみたいんですね。
だから、上映中であっても、映画は見られませんね。
松本人志の映画の面白さは、頭頭、SASUKEにほぼ集約されています。
頭頭は、単純に、ちょっと奇妙なショートショートを映像化したもの、という感じです。
場面場面のインパクトはありますが、今から見直して、再評価しないと、内容をわすれてしまっているぐらいの映画でした。
SASUKEは、頭頭のようなインパクトこそありませんが、分かりやすさを重視した構成になっています。松本人志の普段やっているコントよりも浅く、そうとう広いジョークと、テンポのよいストーリー展開ですが。オチは秀逸です。
松本は自信で落語好きを公言しておりますが、その落語好きが行き過ぎたようなオチで話が終わります。
ストーリーがほとんどないような映画なので、当然、オチはストーリーに準じたものではなく、ストーリーの中にただ表れた伏線を回収するにとどめますが。感動します。
どのような感動かというのは、一言では難しい。
松本人志が感動させるときに、どのようなパターンがあるかを考えなくてはなりません。
松本人志があたえる感動とは、おおむね笑わせることなのですが、その笑わせるというパターンでさえ、たったひとつではないようです。
例えば、松本が聞えるか聞えないかぐらいで、ボソっとつぶやいた言葉に、耳をすませてみると、確かに一理あるね、と、その画面の中で宝探しをしたときに、発見者になったようなパターンがひとつあります。
また、単純に松本が場を和ませるだけの、円滑に話をすすめるための、ジョークらしいジョークにアハハと笑みをこぼすこともあります。
反対に、松本が、人の話を円滑に進めないために、どんどん骨を折っていくようなジョーク、これは松本が卑怯な笑いと表現するかもしれませんが、彼自身も得意にしているような気がします。
鋭い観察眼を持ってした、指摘に、身の危険にさらされたような笑い。
単純に、誰もが想像し得なかった情景を、上手く端的に表現した笑いも。
なぞなぞに答えるような、大喜利的笑いもあります。
その、どの種類の笑いについても、面白い。
そして、もっとも印象的な松本人志の面白さは。顔がほころぶような笑いでも、ハッとさせられるような笑いでも、なるほど~と唸らされる笑いでもありません。
夢野久作の小説のなかには、たびたび登場人物が、狂気に打ち震えた笑い方をする表現が描かれています。
目を限界までひん剥かせて、アッハッハと笑うような、狂気を目撃した彼に、その狂気がとりついてしまったかのような笑い方です。その小説に見る、こんな笑い方をする人物は不気味であり、近づきたくない、こうはなりたくないなと思っているはずの人格に、やはり、一瞬させられてしまう。何かに取り付かれてしまったような笑いを、自分自身がさせらる瞬間があるということです。
まさにSASUKEのオチは、常時穏やかに、ほのぼのとしたコメーディー映画が流れていく中で、狂気の笑いによって締めくくられている構成が異常に印象的でした。
ストーリーもなく、ギャグ自体もそこそこの映画SASUKEですが。松本人志自身が、この映画を撮ってしまったことにより、道を切り開いてしまったこと。同時に、その何気なく番組の一企画で作った映画が、越えられない壁となってしまったこと。
はたからみていて、松本はかわいそうな人だ。と思わざるを得ない部分です。
松本自信もその悲しさをいまだに引きずっている。松本をみていて、画面で彼がわらっていたとしても、どこか悲しい気持ちになるわけだ。
大日本人はSASUKEのあってなかったようなストーリーと、ギャグパートをなくし、変わりに彼が浄化してしまいたいのであろう、彼の哀愁をたっぷりしみこませたストーリーがついてまわる。そして、SASUKEのような狂気に満ちた笑いをオチに付けたしたかったが、結局は、そのオチが全く成立することなく、SASUKEの足元にも及ばない映画になってしまいます。
(ただ、大日本人のオチが狂気に満ちたものであったことには変わりありません。ダメだったというわけでもない。)
しかし、大日本人は、松本が本格的に映画を作製したと銘打ったため、頭頭よりも、SASUKEよりも、瞬く間に世間の知名度をもってしまいます。
大日本人のストーリーでさえ、注意深く追っていかなければ、どのようなものかも分かりづらい映画です。
それは、大日本人は、かつて世間でもてはやされた存在ではありますが、現代での必要性が懐疑的にされているものでした。まさに物語の主人公は、その英雄であった大日本人の末裔、6代目の大佐藤大です。
映画自体が、どうしても、その登場人物に共感できるようなつくりではなく、映画を見ている人にっても、こいつは駄目なやつ、酷い扱いをうけて当然だという印象をあたえます。
それは、物語の始まりが、大日本人を追いかける一人の記者の視点から描かれているところが原因です。
松本自信が非常に人見知りでシャイだという性格は知られていますが。松本は、他人の目から見られる大日本人を描くことによって、どうしても、その内面を探り当てられるようなことは避けたかった。だけど、映画の真意としては、その内面は実はあるよってことなんですね。
その映画の作り方自体、哀愁を感じずにはいられません。
本当に大日本人はかわいそうです。なぜならば彼は、視聴者にも共感されないんですから。
映画は公開した何年か前に一度見たきりでした。何度も見返したいとは思っていましたが、まだそれっきり見返すことができなていない(youtubeとかにないので)もし、今からみたら、全く違う感想を思うかもしれませんが……
今思うことは、この大日本人にも、やっぱり松本人志の面影を感じることが出来るということです。彼は、”松本人志は、昔はすごかった……”というような評価をたびたび受けています。しかし、ほんとうにそうなんでしょうか。
それは神格化であり、過去の偉人化に他ならないのではと思います。
娯楽が分散してしまった現代は、ゲームをやっても、マンガを読んでも、パソコンをしても、遊びつくせない時代です。その中でテレビを娯楽として選ぶ人は非常に少なくなってきている。
それでも、松本人志の面白さは、おのおのの分野で求められていることです。例えば、youtuebを見るにしても、そこに松本人志の姿を見たい。彼の過去の栄光であってもいいから。
まだ、自分の知らない松本人志の面白さがあるならば、探したいと思うはずです。
そうして、過去にテレビの中にのみ松本人志を求めていたものも、それぞれ別の場所で、彼を求めています。
映画『大日本人』も『さや侍』も、そこそこの評判でした。
『しんぼる』は彼の作品の中で、最も評価されなかった映画です。
どうしても『しんぼる』を見ておきたいと思ったのですが。ようやく機械を得ましたので、本当に『しんぼる』は最低の映画だったのかと、確認することが出来たのを嬉しく思います。
しんぼるを見ていますと。はじめは、SawやCubeのような2流映画をわざわざ模倣したような場所からスタートします。
SawやCubeもある程度の評価を集めた映画でした。単純に方法を模索しなければならない映画だったから。その一点のみにおいてですが。
もしSawやCubeが、面白い映画だといえるなら、このしんぼるの導入部分も評価するべきです。
僕はSawもCubeもくだらないと思っていましたが。だから、どうして松本人志は、この映画のも婦から入ることを選んだんでしょうか。
※カット1 しんぼるの松本パート 3:47地点
(すばらしい演技・構図、しかし、ある意味で、静止画である……)
松本人志がどうして映画を取ろうとするのか、理解に困る要因の一つです。その理由は、松本人志の映画に、映像として面白い映像が見えたらないから。
松本人志の中には、おそらく、このような動きをとりたい、というヴィジョンがおそらくない。
ただ、カットとして、興味深いものは多くあります。
松本人志の頭に浮かぶものは、映像ではなく一枚の絵なのでしょう。彼は、それでも映画を撮ろうと思っています。
カット1 3:47は、松本は役者として非常によい演技をしたと褒めたい。
このカットは、松本が壁から飛び出したオブジェに触れ、松本だけの時間が止ってしまった瞬間です。その松本だけが止っているというのを、松本を取り囲むカメラアングルで表現している。このシーンはよい。この演技ができるものは、役者の中でも稀であると思います。
それは、役者に、突起に触れて部屋の中で起きた現象により、あなたの中での時間が止ってしまいます。と説明したところで本当に時間がとまったように演技をしてしまうからです。
松本のこの演技は、どこか決まっているのです。彼の中で実際には時間は止っておらず、彼は固まっていますが、彼は見ている。そうでなくては、理解し、時間が動き出したと同時に、叫ぶという演技まで繋がらないからです。
それでも、この構図は、アングルさえ変わりますが、映像ではありません。
まるで彫刻を、見回しているようなシーンです。
松本の頭に浮かんだのは、この一枚の絵であるに違いありません。決して映像ではなかったのです。
つまり、演技の指導をするならば、本来とはかけ離れた注文をしなければなりません。あなたは、突起物を押し、一枚の絵になるのです、と。
松本は、自分の思い描いた絵に、上手く溶け込むことができました。松本が演じるほかに選択肢はなかったのだと思います。松本はこの場面に適切な役者でした。高度に絵を演じたのです。それでも、俳優としての評価など、0といっていいでしょう。
そもそも、誰も、映画としてはみていないからです。
(
※補足
つまり、動画的な演技といえば、実際には動いている空間で、止っているという演技をしてしまう。しかし、静画的演技の場合、止っているという、動的な演技が必要になる。
動きのない絵に対しては、動きがないね、と評価されてしまうから。
)
しんぼる4:20秒までみた感想。
ここで、自分がみているしんぼるは、松本パートだけをまとめたものだと気付いて。ちゃんと最初からみなおしましたが。
松本パートはかなり面白いと思いますよ。
泣けるし。
すしを食べるシーンとかすごいなけるんですよね。
その直後ですが。すしを食べながら、うんうん、うんうん。って言ってるんだけど。
すげー振ってるなあ、何をそんなにハードルあげてるんだろうって思ったら、思いのほかベタな展開になって、笑えました。
これって単純におもしろいし。穿ったみかたをしても面白い。かなり高度な笑いなんじゃないかなと。
松本がたまに高度な笑いと自分のセンスを自負するようなね。
だって、何回見ても面白いからね。フリがやばいです。
まぁ、映画全体としては、面白くないっていわれてもしょうがないですよね。
だけど『しんぼる』を見終わったとして、映画について論じるときに、おもしろくないだけで終わらせることにはならないと思います。
僕も途中、寝てしまったんですが、しんぼるを論ずる価値はないかなと思ったので。4:20まで見て思ったことだけを記事にしようかと思いましたが。
ネット上に2つだけ、とても面白い解説をつけているサイトがありました。
僕は、再考する価値がないと思ってしまったんですが、みんな、その二つの記事を見ても、しんぼるは最低の映画だったといえるんだろうか。
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