2013年9月3日火曜日

誕生日だ(笑)


自分が何歳か、自分の誕生日がいつかということを両親は覚えていてくれました。
自分の誕生日と同じ有名人だとあまり忘れないのですが、私は両親の誕生日を、考えなくては分かりません。

間接的に覚えている。
母であれば、自分の誕生日から何日後か? という計算の後に思い出せる。これは、自分の誕生日を9月3日だという基準にするように、母の誕生日が自分の基準ではないことを示す。
また、何月の、どのあたりか・・という大体のところで覚えている場合もあります。

誕生日は分かりやすいが、何歳かというのは難しい問題だと思う。
それも覚えていてくれました。
母は、そんなこと当然だと感じるでしょうが、私は、良い母親だと思います。


ある日の会話の食い違いです。
誕生日や生まれ年の話には、日常会話としてよく行き着くものです。
私は、同級生に年齢を聞いたことがあると、冗談めかして言うと、誰も本気にせず、そんな馬鹿な・・という反応をする。
冗談の一般化が、会話の混乱を招くれいです。
そして、そんな馬鹿な・・と笑っている相手に、「私達、聞いた話では同級生だそうですよ」というと、「え? 何歳? 何年生まれ?」と即座に返事をされる。
聞くことによって同級生と分かった経験は何度もあるはずだし、むしろ、そのような経験しかないはずなのに、どうしてありえないと思ってしまうのか。

このような会話がおしゃれだと思って一般人とも楽しみたいのですが、よく空振りに終わってしまいます。また上記以外にも、私が非常におしゃれであり、ユーモラスに溢れた内容だと思う会話の中で、どういうわけか知らない間に相手が傷ついている場合や、私が自己中心的な人間だと憤りを感じる人も少なくありませんでした。
それは単に、私が舐められやすい顔をしているってことが原因なんですが・・・。
リーダーであると錯覚しているものと、対立してしまう。
無論、私はリーダーぶったりはしない。私は、脇役に徹し、リーダーをより一掃引き立てようとするのだが、反感を買う。

新しい空間が出来たとき。私も、ごく普通の一般人がするように、自然に振舞い、観察をする。
誰が、どのぐらい考えているのか、どのような性格であるのか。また、空間をまとめようとするのは誰なのかと。私は、最後まで自分の立場を決めない。
リーダーなき空間には、必ずリーダーが現れる。本当に最後の最後までだれもならない場合には私がなることもある。彼もまた、他に誰もやる人がいないので、オレがリーダーだ、オレがみんなを導くと決意し立ち上がったのだ。
私もそれに賛同し、徐々に残された空間の立場が決まる。リーダーを取り巻くもの、から、リーダーと一定の距離を保つもの、羊のように従うもの。私は、誰ともぶつからないように水か空気のようになって、残されたピースに当てはまる。
そして、リーダーが方針を決めるのを待ち、その間に、リーダーにどの程度の力があるか、リーダーにはかけているものは何かを分析する。
私は、リーダーの方針が決まると、それには決して反対はしないが、より優秀なリーダーになるべくアドバイスを送る。これはリーダーにない発想であり、リーダーにない視点であることが多い。
これが、非常に感謝されることもある反面で、人によっては、感謝されない。
彼は、私が空間の中で、弱者であるべきだと考えていたところに、思いのほか意見をし、反論をし、自分の知らないことや、自分が考えたこともないようなことを言うので、立場をなくしたように感じる。
そして自分の言葉や言動にすっかりと自信をなくしてしまうので、彼は怒りによって訴えるしかなくなってしまう。
しかし、それがすぐにリーダーらしからぬ、非常にみっともない行動だと気が付くので、再び大衆に問いかける。
「オレが怒っている原因を考えてくれ」と。

そして、私が原因だといい、私が何も言わないことを望む。

・・・
・・


自分を中心に考えると、すぐに身の回りに思い当たる物の中に母がいます。
自己中心的な思考が見るものの中には、必ず母を感じます。そこに母の一部が見える、または、それが母の視野にあるか、という場合。
自己中心的とは、私が育った環境であり、私が友と分かりあえたこと。
私の国の教育方針、私の国の法律、宗教的であり、母が決して破るなと戒めたもの。
しかし、自己中心的は、必ずしも私だけの視野ではない。
自己中心的な言動を考えれば考えるほど、そこに私などはなく、わたしを取り巻いているものだと気が付く。
自己中心的とは、私が、自分の誕生日を中心として、人の誕生日を見るようなことではない。
そこで人は自己中心的について、重大な思い違いをする。

なぜならば、「キミは自己中心的だね」と発する人がいう意味とは、
キミは、オレの育ってきた環境にいた人たちとは違う、キミは、オレの仲間達とは違う、キミはオレ達の暗黙のルールに反している、キミは、オレ達とはうまくやっていけないよ、という意味であり。
"オレ達"を押し付ける、彼の視点が、自己中心的だから・・・。
しかし、オレ達という意識が強すぎるため、これは自己中心的ではないのだと思ってしまう。
彼は、自己中心的を、自己そのものと勘違いをする。
あくまでも中心に位置するだけで。そこを中心とした、半径何メートルかの存在を忘れてしまう。また、それほど視野の狭くなった状態であることさえわすれてしまう・・・。
もう、その人しか見えていない。その人がにくくてにくくて仕方がない。非常に冷静ではない状態の中ではなたれる一言といえるでしょうね。


ま、舐められやすい顔に産んだ母を恨んでいることは決してないんだけど。
誰からも舐められるわけじゃないし、(顔ではないのかも知れないけど)好きだって人も希少だけどいるし。
マザコンのように思われるが、私は、稀に見るいい母親だと人に言う。
そして、母の言動を話の種にしゃべったりもする。

ただ、幼少期を思い出すと、私はいい母親だと思っていたが、母親は私を憎んでいた。
私の幼少期は、舐められやすい顔に生まれたために、大人からよく可愛がられた。
ことあるごとに、母の友達(ママ友?)から、「うちの子にならない?」と提案される。(これは結構長い間言われ続ける。最後がいつだったかは分かりませんが、もうすでに性に目覚めていた段階でも言われたと思います。)
よくある質問ですが、私は、いつも上手く切り返すことが出来ませんでした。そのことに、母はストレスを感じたと思います。

私は別の家の子になったことを想像してしまいましたし、あまりにとっぴで、答えられなかった。
それに、嫌ということは絶対にいえませんでした。断ると、その人を傷つけるのではないかと考えたからです。
相手も相手で、絶対に嫌とだけは言わないだろうと思ってその質問をしていたのでしょうが・・・。
だから、いつも返答に困っている私をみて、母は情けない気持ちになっていたと思います。
その瞬間に腹をたてたことでも、ストレスとして積み立てられ、まるで無関係な事件で発散されたということもあったと思います。

子供に、うちの子にならない? という質問は非常に残酷だと思う。
その恐ろしさは、表面上、優しさだけで出来ていることにあります。

だけど、うちの子にならない? と幼少期言われなかった子供は、たいした大人にならないとも思います。クソみたいなガキをみて、このゴミは、一生ゴミのまま大人になるんだろうなと思うからです。彼の環境には切っても切り離せない、彼を育てた両親がいて、彼の視線の中に、その両親も、彼を取り巻く環境もずっと残るのだと思うと、かわいそうだなとは思います。
幼少期に「うちの子にならない?」といわれなかった子は、少なくとも、リーダーには不向きですね。
なろうとはするかもしれませんけど。

また、幼少期に「うちの子にならない?」と、言われた子は、確実にリーダーには向いていない。
なろうとも思わないし。でも、脇役には向いてるんじゃないかなって思うんだけどね。
自分ではね。
(笑)

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