私は、今まで絵を描くことは、ある種でスポーツのような、野蛮な感性に頼る才能であると考えておりました。絵の上手い人には、何か特別な感覚があって、芸術的な嗜好があるものだと思っておりました。
彼らには、今の私にない何かがあって、それを活用して描いているのだろうと。
私が、絵を描こうと思い立たなかったのは、私にはまるでなんの手がかりもなかったからなのです。絵を描くとは、まず何を描けばいいのかというところです。また、私の絵はきまって評判が悪かったので、人に見せることも苦痛であれば、それが特に想像できた、描いている最中などというのは、もっともっと辛い苦しみを味わう時間でしたから、描こうとはまるで思い立ちませんでした。
小学生のころ、その当時の同じ班にいた女子は、私のマンガを非常に喜んでくれましたから、その子と同じ班の最中には、よく描いて読んでもらっておりました。
ほんの、ひと時でしたが、今もよく覚えているのは、彼女が熱心に絵の描き方を教えてくれたことと、私が唯一絵を描くことに喜びを覚えた時間でしたから、絵を描こうと決意したときに、鮮明に思い出として蘇ってきたのだと思います。
そのころ教えてもらった絵の描き方は、ベースとなる主人公のキャラクターを、よく練習するように言われ、脇役は、その主人公に、帽子をつけたり、帽子の形を変えたり、目の形をかえたりすることで、別のキャラクターに見せればよいというものでした。
線と丸や四角で構成された、非常に簡単な絵でしたが、それを描けるようになるにも、時間がかかったのを覚えています。
同じように見えても、彼女のお手本は、今書いた自分のものよりも、どういうわけか魅力的に見えるのです。それでも、下手なマンガをかいておりました。
絵は、漠然とした感性によって描かれるものであり、何度も走ることが、より早く走れることに繋がるように、絵も、何度も描くことによってだけ絵心がつかめるものだと思っていたのです。
それもあながち、間違いではないのでしょうが、私が昨日見た、萌える絵の描き方を教えてくれの、赤ペンうpロダを覗くと、そこに1ヶ月後の今も色あせない感動を見たのでした。
赤ペンうpロダとは、どうやら、ユーザーが投稿した絵を、別のユーザーが手直しをしたり、そのイラストに指摘をしたりする、ネット上のイラスト教室のようなコンテンツです。
そこでは、ユーザー同士のなんとも理路整然とした指摘や、解説が、激論となっていくつも繰り広げられておりました。どのような絵が素晴らしいかと、理論武装して、言葉で戦わせているユーザーさえいたのです。私は、絵とはこんなにも言葉で説明することが出来て、頭を使って描くものかと驚きました。そして、いかに理論的に描かなくてはならないのかと、思い知ったのです。
私の趣味は、ゲームでしたが、どうやって、ひとよりも頭を使ってプレイしようかと考えるのが好きでした。まさに、赤ペンうpロダを見たときに、これだと思ったのです。
ゲームを多くの人は、頭を使ってプレイしませんが、絵についてもいえることだと思ったのです。そして、ゲームの上達にもいくつかのコツやポイントがあったように、絵にもあると確信したからです。
そして、絵が、ゲームのように奥深く、理論的にその上手さや素晴らしさを説明できるのであれば、この世界にすぐにでも飛び込んでしまいたいと思いました。
私が赤ペンうpロダに、初めて足を踏み入れた時の感動を、ずっと忘れることはないでしょう。そして、私はここの教師達のように絵がかければと心底おもいました。
今までうらやましくもなかった、絵がかけるということが、どんなに素晴らしいことなのかと彼らに教えてもらったのです。
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