2013年11月1日金曜日

ロスト

アナログではそこそこ書いてる。
あと、テキストに文章は羅列してあるが、書いたときの記憶が残っているうちに修復しなかったのでロストしてしまった。




可能性のある練習方法をみつけた。
これは実際に描く場合じゃないんだけど。

見る場合のトレーニング。

まぁ、とにかく、脳みそに刻もうと思い込むことですけどね。単純に。

昔も心がけていたトレーニングだったけど。それよりもより具体的に、いや抽象的になっているのかも知れないけど。
次元が違う心がけだね。

まぁ、つまり、みたものを全部完璧に、写真を撮ったみたいに後で引き出せたら一番いいわけだけど。実際にはそうはいかないって思うでしょう。

例えば、60分ぐらいある、アイドルのイメージビデオみたいなのを見るとする。その60分間を全て思い出すことは不可能。
だけど、そのうち1パーセントでも何か脳みそに残ってればいいんじゃないかってのは思う。たぶん、どんどん、断片的にだろうが、意識してみれば、残るんじゃないかって思うんですよね。
だから、もう、見たものは、頭にやきつけるって思ってみる。もう、全部。見たものは全部ね。
すると、後で、今日何をみたかなって思い返すときに、全く思い出せなかったとしても、何か一つぐらいは思い出せるんじゃないかってことなんですね。

だって、映画を見たときに、そういう意識でまったくみなくっても、あのシーンが印象的だったとか、あの構図がよかったってのは、後から振り返ることが出来るからね。

でも、絵とか、イメージ的なものだけに限った場合って。そうやって思い返せることが少ない気がしたんですよね。
映画はストーリーの流れ+構図があって、急にインパクトのある構図が飛び込んでくるから。それも、緩急をつけてやってくる。
あるいは、何か起こるぞと言うフリをみせられた後にやってくる。
たぶん、そのストーリー(が心を持つとすれば)の心境にあわせた構図の連続からやってくるだろうからね。

模写するってのは、激的な効果があるんだろうけど。
それって、やっぱり頭に焼き付けてますね。自分が時間をかけて描いた絵は、割と、こんな絵だったなって思い出せる。
それは100枚の絵を10秒ずつ見た内の1枚とは印象がまるで違っているわけですからね。

つまり、いつかこんな絵をみたことがあるという印象がたくさんあって、新しい絵も出来るだろうと思います。

絵を描くのが好きな人はどのように絵をみているんだろうかって思うことがありますね。自分も好きなんだけど、いつも、意識して絵をみるわけじゃない。そういう日もあれば、何も考えていない日もあるわけですからね。
なんでアイドルのイメージビデオを例に出すかというと。意味がないからなんですよね。意味がすくなすぎる。映画などと比べてみたら、関連した言葉からアイドルのイメージビデオに出てきたひとつの構図などには全く繋がりにくい。関連した言葉? 意味が少なすぎるんですよね。
だけど、本当に絵が好きな人であれば。というか、まぁそれに興味をもっているひとであれば、何かしら意味をみつけて、そこにつなげられるようになってんじゃないかってのを考えました。

絵として頭に残ってるものは、単語とか、他の絵的なもの以外のものに比べて、かくも引き出しにくいかってことなんですよね。

バナナといったら黄色。みたいなそういうつながりがほんとにない。
だけど、出来るんだろう、絵が上手い人は。
バナナをイメージする時も、どうしても言葉が先行してしまう。
バナナという絵につながらないし。
いつも、思い浮かぶのは、バナナという漠然とした像であって、あのバナナ、このバナナではない。自分が思ってるバナナのイデアにのみ接続しているかんじがある。
いつ食べたバナナだという風に、思えるようになるはずなんだってことなんですよね。

言葉である程度遊べるように、絵でもある程度遊べるんだろうなと。

そういうトレーニング方法があるはずなんですよね。
その過程が絶対にあるはず。
絵が描けない人と、絵が描ける人の間に、ピテカントロプスがいるはず。

自分が見たものは、絶対に脳みその中に、映像として、絵として、残っているのに、そこに繋げるすべがない。


バナナと同じ理屈だが、エロい絵をかきたいとして、M字開脚を描くと。じゃあ、自分が今までみてきたM字開脚をどの程度イメージできるのか。それえをイメージせずに、M字開脚の写真をたくさん見るって方法もあるだろうし。イメージしたM字開脚の綺麗なラインを、写真を参考にして引いてみるって手もあるだろうが。
自分で出来るイメージが多いに越したことはないわけですね。
だけど、実際に、M字開脚ってどういうのがあるかなと。
興味がない人には、そんなに思い浮かばない気がする。で、その思い浮かばないM字開脚の語彙ならぬ像彙が貧困な中で、どのようなM字開脚が自分にとってよいのか。という意味さえ、ないんだろうと思う。
オレ、M字開脚のここが好きなんだよねっていえるところね。M字開脚の構図であったりね。あのM字開脚は本当にすごかったという、印象さえない。
だから、こんなM字開脚もありなんじゃね? という想像力なんてありえないんですよね。
で、こうなると割りとネガティブなんだがそうじゃないんだよ。
だから、今までは話になってなかったわけだ。
オレ、まだM字開脚の素晴らしさには出会ってないんだよね。誰もみたことのないM字開脚の美しさがあるならば、オレは見てみたいって、そう思えるようにならないとだめなんですよね。
M字開脚をしらなくっても、今までに見たM字開脚にはアクセスできる必要があるってこと。

M字開脚ではないんだけど。
例えばさ、女の子が足を体育座りみたいに足をかかえた時に、煽りの構図でみると、女性器の部分にくぼみができたりするわけじゃない。
そのくぼみは何で構成されてるのかってことが大事じゃん。
でも、別に解剖学とかは必要ないわけ。解剖学は言葉にアクセスするときに便宜上必要で、知識として持っている分だけ有利なのにはかわらないけど。
そもそも、そうなるっていう絵を知らないと意味がないからね。
知っていて、このくぼみを構成する要素は、なになに筋だよねとか、それを言葉に出来るのは強いってだけね。


で、自分が体験しなかったことも記憶に残るってのは、寺山修司がいったことだったって思うけど。あーオレならこうするのになっていう、体験もあればなおいいのかもね。
なんでもないイメージビデオだが、もっとこうなってたら、エロいんだろうなとか。会話することも出来ますね。
そういうもっともっと深い体験がしたいってことを思いました。

だから、あの時の、彼女の息遣い、彼女の振るえ、をイメージする時に、もやもやとした波はイメージ出来るんだけど。
線が出てこない。
肌の柔らかさをイメージするときに、きっと、絵が上手い人なら、何本かの線が同時に出てくるはずだからね。無数に出てくるんだろう。

痛い思いをした時に経験って思い出すことができるじゃん。
それも、同じぐらい難しいことなんだと思うんだよね。でも、割とかんたんじゃん。だから、見たものを思い出すことだって、全く難しいことじゃないと思うんですね。
その証拠に、いくつかの絵に関しては、思い出すことが出来るんだから。

自分が描いた線は、自分をミスリードするかってもの。
わざとミスリードさせて描く方法もあるのだろうが、本当に絵が上手くない限りは、その方法をとるべきではないだろう。
(途中)

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自分から消失点までの距離はどれぐらいあるんだろうって考えるでしょ。
画面に一本の線を引いた場合には、確実に、その距離は有限だと思えるわけだけど。
画面に任意の点を描いて、そこまでの距離は、色々想像しうるんだけど、0であったり消失点のように、無限であったりと。
消失点に限っては、かならず、その距離は果てしなくなりますね。

スピーカーをみて、この上面の消失点はどこまで伸びてるんだろうって考えます。だけど、どうやら地平線には消えないんですよね。
この点ははるかかなた、宇宙を突き進んで、その先の先まで伸びるのかと。
自分の目に映らないのは、単純に視力が悪いだし。消失点がとても小さいものであるように、その伸びた先が小さすぎて見えないからなんだろうけど。

だから、自分の視野には本当は、そうとう大きな宇宙が移っているはずなのに、無限の宇宙を捕らえているのにも関わらず、漠然と空という現象としてしか認識できないってことなのか。

宇宙の果てだって、限りなく0に近いけど、見えてるってことじゃん。

目の前でなにかモノをひとつ見るよりも。もっともっと多くの、もっともっと巨大な宇宙を見ているってことだったんだ・・。

janakute

消失点までの線を、二分割することは可能だし、その距離は有限だと思う。
でも、その二分割した消失点の実際の距離は、その二分割の地点から、消失点までの二分割の距離に等しいのだけど。・・・。

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